求菩提山 日本が、まさにひとつの国家として産声をあげようとしたころ、余命を悟った天皇が、内裏にひとりの僧を招き入れました。日本書紀に「豊国法師」とされるこの僧は、特別な呪術の技をもった当時では超一級の豊前の僧の集団のことをさしているといわれています。豊前とは、現在の福岡県北東部から大分県北部までの一帯をさします。現在の大分県宇佐市の宇佐八幡神宮を中心として栄えていた渡来人たちの文化圏が、大陸との交流を経て発展を遂げていました。一説には、この地域は秦一族が多く移り住んだ「秦王国」とも称されます。渡来文化との強い絆が、豪族の力関係を左右していた歴史的背景をふまえると、豊国法師が参内したことは、天皇自らが仏教という渡来文化を積極的に受け入れようとした点で特出した事件です。 この時、内裏に招き入れられた僧の個人名も、また用明天皇にどのようなことを命ぜられたのかも記録には残されておりません。病気平癒の祈祷であったか、悪霊退散の呪術であったか、または、天皇の身体に直接触れてお加持をする「玉体加持」であったかもしれません。また、次の天皇を決めるときには宇佐八幡神宮の御神託を受けていたという天皇家の伝統があったように、余命を悟った用明天皇が、次の天皇について憂慮されていた可能性も否定できないでしょう。 豊国法師参内に積極的であった聖徳太子が、用明天皇の子どもであったことを考えたとしても、仏教が伝来したばかりの日本において、ひとりの僧が内裏に招かれたこと自体が特殊中の特殊な待遇です。だからこそ、日本書紀をはじめ多くの文献に記録され、またそのことが、豊国法師の力とこの事件の大きさを物語っているのではないでしょうか。
守屋 ( もりや ) の 臣生 ( おみせい ) を 代 ( か ) へたりと 雖 ( いへど ) も 鬼魔 ( きま ) と 變 ( へん ) じて 障害 ( しやうがい ) を 爲 ( な ) す 所 ( ところ ) に 御本所 ( ごほんしょ ) より 乾 ( いぬゐ ) の 方 ( かた ) に 當 ( あた ) り 紫雲 ( しうん ) の 氣 ( き ) の 立 ( た ) つあり 是 ( これ ) ぞ 天 ( てん ) の 告 ( つ ) ぐる 所 ( ところ ) と、 紫 ( むらさき ) の 雲 ( くも ) こそなびけ 行 ( ゆ ) きて 見 ( み ) む 吾孫子 ( あびこ ) の 嶺 ( みね ) に 神 ( かみ ) ぞましますと 宣 ( のたま ) ひ 吾孫子 ( あびこ ) の 嶽 ( たけ ) に 上 ( のぼ ) り 給 ( たま ) ひしは 太子 ( たいし ) 十六 歳 ( さい ) の 御時 ( おんとき ) なり、 紫雲山 ( しうんざん ) 忍熊大明神 ( おしくまだいめうじん ) に 詣 ( まう ) でられ 應神天皇 ( おうじんてんのう ) の 納 ( おさ ) め 給 ( たま ) ひし 尺有 ( しやくいう ) 二 寸 ( すん ) の 金銅 ( こんどう ) の 匣 ( はこ ) を 岩屋 ( いわや ) の 邊 ( あたり ) より 掘出 ( ほりだ ) し 奉 ( たてまつ ) り、 地主 ( ちしゆ ) の 大明神 ( だいめうじん ) 、 天照皇太神 ( てんせいくわうだいじん ) を 拜 ( はい ) し 給 ( たま ) ひ 諸神 ( しょしん ) に 祈 ( いの ) り 奉 ( たてまつ ) りて 鬼魔 ( きま ) を 鎮 ( しづ ) め、 長卒塔婆 ( ちょうそとば ) を 紫雲山 ( しうんざん ) の 艮 ( うしとら ) に 立 ( た ) て、 天 ( てん ) には三 密 ( みつ ) 金剛 ( こんがう ) の 羅 ( ら ) 網 ( まう ) を 張 ( は ) り、 地 ( ち ) には五 部瑜伽 ( ぶゆか ) の 智水 ( ちすゐ ) を 注 ( そゝ ) ぎ、 利生掲焉 ( りしやうけいえん ) の 結界 ( けつくわ ) にして三 點字形 ( てんじがた ) に 御堂 ( みだう ) を 建立 ( こんりふ ) し、 太子 ( たいし ) 七 生以前舎衛國 ( しやういぜんゑいこく ) にて一 刀 ( たう ) 三 體 ( たい ) に 刻 ( こく ) し 給 ( たま ) ひし十一 面觀自在菩薩 ( めんくわんじざいぼさつ ) の 尊像 ( そんざう ) を 異國 ( いこく ) より 迎 ( むか ) へ 奉 ( たてまつ ) り 本尊 ( ほんぞん ) に 安置 ( あんち ) し 給 ( たま ) ふ 云々 ( うんぬん ) ( 當寺縁起 ( たうじえんき ) )